マキシマムの法則を再認識しよう
人は仕事を行うとき、うまくいくために最善の策を取ろうとして行動します。うまくいかなくてもよい、失敗しても仕方ないという思いを持ち行動する人はいないからです。
目標を決める人、指示する人、実行する人がプレイヤーだとすると、それぞれが常に最大の成果を挙げようと行動します。しかし、目標の設定における網羅性、情報収集力、指示の的確性、仕組みなどに制約があり思い通りに物事は進みません。さらに何かの行動をとるときその行動に求められるレベルが、プレイヤーの能力に比して高ければ高いほど成果が挙がる確率は下がるのは自明の理です。
ヒト、時間、情報、モノ、カネの制約に整理しきれるかどうかは別として、とりわけ成長のための何かを行うときには必ず多くの制約が存在しているのです。
必要なすべての情報が得られず、思考が中途半端だったり、十分な代替案を検討できない、また、こうなるだろう、こうなる筈だという期待が介入し目標の設定がうまくいかないことは日常茶飯事です。
結果として目標からプレイクダウンされるアクションプランは完全ではありません。そもそも目標の捉え方が曖昧であれば、KFS(重要成功要因)をすべて抽出できないことから、PD(成果行動)、そしてKPI (重要業績評価指標)の設定は適切ではなくなります。
また指示を出す人の目標理解力やコミュニケーション力が不足すれば、大きく影響を受けて達成すべき目標や行うべき行動が実行者に伝わらないという問題も生まれます。
さらに手を抜くことで自分のメリットを得たり、もしくは自分なりに認識した「報酬の範囲」で適当に仕事をして時間を過ごそうというプレイヤーが存在すれば、彼らも業務遂行上大きな制約になることは間違いありません。
いうまでもなく行動する人の能力や意欲に目標達成行動が大きく依存するためにネガティブな場合には適切な成果が挙がりづらいという結論になるのです。
真実として制約が全くない仕事があるとしたら、
- その仕事を計画した組織が絶対的に優れているか、
- 明らかに仕事が容易もしくは進歩のないルーチン業務を行っているか
のいずれだと推測できます。
ここで重要なことは、組織が何かを行おうとするとするときには、全て把握できないほどのさまざまな制約があることを前提に、それらの制約をできるだけ発見、クリヤーするよう行動することが必要だということです。
物事をいまできる最高のレベルで達成することは無理だという思いをもちつつ、できるだけ最大成果を得るための「制約排除行動」をとることが結果としてその時点でのパフォーマンスを最大化します。
人は常に自分にとり最大の行動をとろうとするが、そこには幾つもの制約があり、制約を解決できるところまでがマックスの成果である、という法則のなかで人は仕事をするといえます。これを我々はマキシマムの法則と呼んでいます。
当たり前だし分かり切ったことのようですが、いま一度ここで書かれた事実を振り返り、マキシマムの法則を意識下に置くことが大事です。
何かを行うときにはマキシマムの法則を念頭におき、目標立案、指示、行動における制約がどこにあるかを漏れなくダブりなく把握して行動すべきだということになります。
もちろん「漏れなくダブりなく」についても自分で考えた「漏れなく」も「ダブリなく」も曖昧です。「漏れなくダブりなく」完全に切り分けられる使い方をする以外には、真実からの乖離の幅は誰にもわからないため、漏れたりダブりがないことへの認識には誤謬(=誤り)があるはずです。
なのでやはり、成果を挙げるためには常に制約に気を配り、できていないことを探し解決し続けながら物事を進めることが唯一無比の行動だと肝に銘じなければならないのだと考えています。
したがって仕事に関与するすべてのプレイヤーは
- 目標は事業にとり適切でか、
- 目標は実行可能な詳細な行動に落とし込まれているか、
- 網羅的かつ的確に指示が出されているか、
- 指示を知るだけではなく理解しまた受容した結果、行動が起こされているか
といった反芻を常に行い辺りにある制約を見つけ出さなければなりません。
益々厳しくなる経済環境を迎え「制約をクリヤーできたところまでが成果の最大値である」というマキシマムの法則を重要な行動規範の一つとして捉え、仕事の各段階での課題を発見し、徹底的につぶしながら仕事を進めていくことが、いまさらながらに求められています。